原田悠里 特攻の母~ホタル 歌詞
歌:原田悠里
作詞:室町京之介
作曲:坂元政則
発売:2014-06-26 09:11:43
私は鳥浜とめと申します。
鹿児島県の知覧(ちらん)という小さな町で、小さな旅館を営んでおりましたが、太平洋戦争が勃発した
直後、昭和十六年十二月二十四日、飛行基地が発足いたしました。静かだった知覧の町も飛行機の爆音
に明けくれるようになりました。飛行兵といっても十五、六歳から二十二、三歳の少年達が、日夜急
仕込みで飛行機を操縦する猛訓練に励んでいたのでございます。
私の旅館も富屋という軍の指定食堂になり、毎週日曜日には若い隊員さん達の憩いの場所となりました。
私を故郷のお母さんの様に慕ってくれて、無邪気に甘えてくれたり、相談してくれたり、私も母親代わり
をと…一生懸命尽くしました。
その頃、戦局は急速に敗退の一途をたどっておりました。昭和二十年三月二十五日、沖縄の一角に連合軍
の上陸が始まり、最悪の事態になってまいりました。この戦局を挽回する手段として、世界戦史に類を
みない一機で巨艦を撃沈する体当たり攻撃、特攻隊が編成され、この知覧の基地から沖縄の空に向かって
飛び立っていったのです
そして誰も彼もが叫ぶのです…。「知覧のお母さん、僕たちは立派に花と散ってみせますよ…。」
それが少年飛行兵なのです。あの子達は汚れを知らず、ただ、お国のために生まれた時のままの姿で、
清く雄々しく花と散っていったのです…。
基地の方角から誰が吹くのか、泣いている様な尺八が聞こえる時は、何人か、いいえ何十人かが出撃する
時でございました。
♪花の蕾が 見た夢は
七度び空を 血に染めて
死んで見せます お母さん
ああ お母さん
会うは九段の 花のかげ
ある日曜日の夜の食事がすんだあと、新潟から入隊した宮川君が「富屋のお母さん、いろいろお世話に
なりましたが、明日の夜明け、出撃せよとの命令です。せめて最後に、故郷の母に手紙と軍から頂いた
お金を送りました。
母ひとり、子ひとりに、甘えて育てて頂いた十八年、ただの一度も孝行の真似事もできなかったのが残念
です…。でも三郎は沖縄の空から立派に玉砕する覚悟です。
やだなぁ、泣いたりして…そうだ、柱に僕の身長の高さに傷をつけておきますね。ねぇ、富屋のお母さん、
僕は死んでも必ず会いに戻ってきます…。蛍になって…だって、あの世の道は暗いんでしょう…。」
「翌朝早く、尺八の音が聞こえてきました。すると、飛行機の爆音が…。
あぁ、あの子が基地を飛び立って行く。私は一生懸命祈り続けました…。一時間、二時間、やがて知らせ
が届きました。あの子は敵の戦闘機にやられて、火だるまになりながらも、敵艦を目がけて、錐もみの状態
で、海の底に消えたそうでございます。どんなに悔しかったことでしょうか…。」
♪やっぱりあの子は 偉かった
それでも最後の 最後まで
戦い続けた 姿こそ
三千年来 受け継いだ
血の流れです 日本の
母の育てた 誇りです
欲を言ったら 飛行機が
そのまま敵の 甲板に
当たっていたら 万歳と
笑って死んで 行けたろに
せめてあの子の回向(えこう)をと、ロウソクを灯しお線香を上げて祈っていると、いつのまにか陽はとっぷりと
昏れていた。その時でした…。長女の美也子が狂ったように…。
「お母さん、大変っ! 庭を見て!宮川君が会いに来たのよ…。蛍になって…。」
「ええっ? ほ、蛍になって…。まさかお前、そんなことが…。」 そう言いながら庭を見ると、尾を引く
ような淡い光が…。「あぁ、やっぱりあの子だっ!」
♪会いに来たのに 違いない
蛍が見えた おばさんと
呼んでいる様に 泣く様に
ああ 泣く様に
草の葉末の 露の上
あれから、もう何十年経ったでしょう。いまでも、はっきりと覚えています。沖縄の空へ飛んで行った
可愛い少年飛行兵は千三十六人もいたのです。その尊い魂を祀って基地の跡に、知覧観音が出来ました。
♪檜林や 杉林
三角兵舎の 朝夕に
母を夢見る 年頃で
儚く空に 散華(さんげ)した
忘れられない 面影が
昨日のように 蘇る
何で泣かずに いられよう
偉いぞ空の 少年と
その勲(いさお)しを たたえつつ
婆の涙の 涸れるまで
祈り続けて 参ります
蓮の花咲く 果てまでも